海人族の祖/淡夜別尊を訪ねてみる/能路寺山へ
今日は木頭から1時間半かけて羽ノ浦町まで歯医者に通う夫について行き、待ち時間に散歩してきました。
延喜式内社
羽浦神社
明治43年に中庄村、宮倉村に祀られていた和耶神社等23社を村社八幡神社に合祀し、羽浦神社となる。
小さくて綺麗な神社でした。
ちゃんと宮司さんがいました。
御朱印もあります。
さて、ここに合祀されている和耶神社が古くて由緒正しいと言われる式内社だそうです。
和那神社とは?
和那神社は式内社那賀郡7座の内の1座に数えられ、更に大日本史及び社殿に和那神社祭礼「毎歳立春前一日村民集社前追儺行事畢三唱神号謂之和那和那神事社名因茲夜不眠云々」とあり、節分の日村民相集まり各自の厄除・災難除祈願の追儺神事が盛大に斎行せられし事が明記され、御祭神は諸厄・諸災難除の守護神とされている。
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 より
御祭神
淡夜別尊(あわやわけのみこと)
淡夜別尊とは
【饒早日命十世孫淡夜別命】 神名帳考證より
【大海部族の祖】 名神序領より
つまり、海人族の祖という事であり、饒速日の十世孫とは、饒速日の子孫という事です。
さらに、合祀される前の元の場所を探してみました。
近くの小高い丘のようなところにあったようです。能路寺山という名前です。
古墳が四つ集まったところだと看板にありました。
能路寺山
老健施設の正面を通り過ぎて、竹林の山中にある古墳の案内看板のところまで行くには、案内が必要です。
今回は、タケノコ掘りに来ていた地元の方が山への入り口を教えてくれました。
さらに古墳から上に登ると、開けた場所に出ました。灯籠のような石の残骸がありました。
この辺りに神社があったのでしょうか?
辺りには、八十八ヶ所巡りのご本尊の石仏が並んでいました。
辺りは平野が広がっているため、昔はさぞかし、見晴らしの良い丘だったのだと思いました。
この写真に写っているかぎ針状に海へと伸びている小松島市の和田島の先から、南へ海岸線の道をドライブしました。漁村という名のふさわしい、海産物の作業場が立ち並ぶ道でした。
この辺りまでが、海人族の支配領域だったと言われています。
徳島県は、忌部族と海部族とが手を取り合って、発展してきた国なのです。
海人族とは、海の民であり、山の民でした。
川を遡り、山の奥地まで入り込み、川に船を走らせていました。
徳島県で忌部文化を研究している林博章氏の著書【倭国創生と阿波忌部】によると、那賀川上流部の那賀郡には海人族を支えた黒芯の杉の産地があり、その材木は海人族の船となったとあります。
黒芯の杉とは、油分を多く含み、腐りにくい材として珍重されたようです。
那賀川沿いには、辰砂の精製場の縄文時代の遺跡も発掘されて話題となったのは、2019年だから記憶に新しいです。
この発見により、辰砂を用いた朱の利用が、これまで考えられていたより1500年以上さかのぼる事になったそうです。
朱の利用方法は、土器に施したり、古墳の内部に施される他、船の塗料として用いられたそうです。朱を施す事で、腐りにくくさせていたのだそう。
天皇の船は朱で塗られていたため、「赫船」(あかふね)と呼ばれていたといわれます。
赤く塗られた船を操る海人族が、倭国創生に大きな役割を果たした事は紛う事なき事実です。
今日は、そんな海人族の祖と言われる、淡夜別尊のお祀りされている神社と元宮の山に登ったのでした。
海人族の勉強が一歩進みました❗️
続く
【参考文献】
【倭国創生と阿波忌部】林博章著 2010年7月10日発行